
茨城県立図書館が所蔵する郷土資料を紹介します。
茨城県内市町村史誌所蔵一覧
当館が所蔵する、茨城県内の市町村が刊行した史誌の一覧です。
茨城県内市町村史誌所蔵一覧(PDF:1349kb)はこちら
○採録は、令和3年(2021)1月現在、茨城県立図書館が所蔵する茨城県内の市町村より行った。
○各市町村、もしくはそれに準じた組織が編纂・発行したものを採録した。ただし、史料集等に収録されていない遺跡発掘調査報告書、地方史研究雑誌は除外した。
○みだしの「新市町村名」は、令和3年(2021)1月現在のもので、平成の大合併前の市町村名は「旧市町村名」として記載した。
○配列は、「新市町村名」の五十音順とした。
○記載事項は、タイトル、編著者名、出版者、刊行年、請求記号を記載した。
茨城県内市町村広報所蔵一覧
当館が所蔵する、茨城県内の市町村が刊行した広報の一覧です。
茨城県内市町村広報所蔵一覧(PDF:589kb)はこちら
○採録は、令和3年(2021)1月現在、茨城県立図書館が所蔵する茨城県内の市町村広報より行った。
○配列は、「新市町村名」の五十音順とした。
○記載事項は、市町村名、タイトル、所蔵状況、備考を記載した。
○欠号があるものには「欠号有」と記載した。
○備考欄にはタイトルの変遷や出版者の変更等の情報を記載した。
住宅地図・ブルーマップの所蔵一覧(茨城県内)
当館が所蔵する,茨城県内の住宅地図・ブルーマップ(住居表示地番対照住宅地図)の一覧表です。
「なつかし・いばらき」のDVD資料
茨城県が昭和20年代から平成初期に作成した,懐かしいニュースや記録映画などの貴重な映像をDVDにした資料をご案内します。
茨城県立図書館デジタルライブラリー
茨城県立図書館が所蔵する貴重資料・郷土資料の一部をデジタル化して公開しています。
下記から古文書や古地図,書簡などのデジタル画像をご覧いただけます。
※利用方法については,こちらの「デジタルライブラリーのご案内(PDF:494kb)」をご覧ください。
貴重資料・郷土資料の紹介
茨城県立図書館が所蔵する貴重資料・郷土資料の一部をご紹介します。
他にも,茨城県立図書館デジタルライブラリーにて公開していますので,ご覧ください。
※リストの各項目をクリックすると詳細をご覧いただけます。
≫ 異国伝馬船大津浜へ上陸并諸器図等(文政七年甲申夏)
異国伝馬船大津浜へ上陸并諸器図等 → デジタルライブラリーで見る
江戸幕府は,寛永16年(1639)に鎖国令を出し,一部を除いて外国船の入港を一切禁止していたが,水戸近海において文政6・7年の頃には,異国船の出没は頻繁になっていた。
文政7年(1824)5月28日,2艘の小船に分乗した異国人12人が本船を離れ,水戸藩大津浜(現・茨城県北茨城市)に上陸するという,水戸藩でも初めての事件が起こった。
水戸藩では大津を直接収めていた付家老の報告により,先手物頭(さきてものがしら)をはじめ,目付・徒目付・筆談役,大筒約ら数十人の武士が現地に急行し,そのほか川尻・湊へも大筒役などを交えた一隊が派遣された。水戸藩の報告を受けた幕府でも,代官や蘭学者の通訳ら40人近い一隊を現地に派遣し,尋問にあたらせた。
その結果,異人一行は英国捕鯨船員で薪水を乞うための上陸であったことがわかり,野菜・鶏肉そのほかを与え,6月11日に全員を本国に帰した。
本書は,文政年間,水戸市下市の町年寄,加藤松蘿(しょうら)が収録したもので,当時の様子が一冊にまとめられている。絵図には,船体の構造,人物の様子,着衣,所持の図書,新聞,銀貨などに至るまで詳細に写生され,彩色されており,貴重な資料となっている。
<参考資料> 『茨城県大百科事典』,『水戸市史』,「館報ときわ」
「異国伝馬船」図
「異国伝馬船乗組員」
≫ 元禄時代水戸城地図
元禄時代水戸城地図
水戸城は,北に那珂川,南に千波湖,東は崖という台地上に築かれ,西側には五重の堀がめぐらされていた。
慶長14年(1609),徳川家康の第十一子頼房が水戸の城主となり,寛永年間(1624~1644)に城の拡張工事が行われ,城下町もほぼこの時期に整備された。
近世の城下町では,武士と町人の居住地が区分され,城に近いところから重臣,中級の諸士,下士級の屋敷が配され,その周辺に足軽,中間などの士分以下の者の屋敷が配された。水戸城下もこれに倣い,本丸・二の丸を中心とした近いところに,一千石内外あるいはそれ以上の重臣の屋敷が置かれ,その周りに一般の武家屋敷が置かれた。そして,更にその周りに町屋敷が置かれた。
ここに掲げた「元禄時代水戸城地図」はその頃の城下の様子を伝えるものである。この時代の武家戸数は,台地上に開かれた上町に557戸,低湿地上に開かれた下町に276戸あり,前後の寛文・天保の時代と比べると戸数がもっとも多かった。地図を見ると,家臣の名前や石高などが記されており,当時の様子をうかがい知ることができる。
現在では,三の丸付近の土塁や堀,県立水戸第一高等学校入口わきに移築された薬医門が,当時の面影を今に伝えている。本県立図書館は,当時の面影が色濃く残る三の丸に位置している。
<参考資料> 『水戸市史(中巻)』,『城郭と城下町2(関東)』
「水戸城地図」本丸,二の丸付近
「武家屋敷」(家臣名と石高)
≫ 桜田門外之変図(蓮田市五郎画)
桜田門外之変図 → デジタルライブラリーで見る
万延元年(1860)3月3日,水戸浪士が大老井伊直弼を襲撃した事件の図である。
将軍継嗣問題や通商条約の違勅調印などをめぐって大老井伊の政治に強く反対した徳川斉昭・慶篤らを井伊は処罰したが,これに憤激した高橋多一郎・金子孫二郎ら水戸藩尊攘派の間には井伊排撃の動きが起こった。
一方,幕府改革を求める孝明天皇の勅書「戊午(ほご)の密勅」が水戸藩に下ったが,その勅書が他藩に伝達されることを恐れた幕府は,井伊を中心にその返納を求めて反対派に激しい弾圧を加え,安政5年(1858)に安政の大獄を引き起こした。
最も弾圧の激しかった水戸藩では,勅書返納反対を主張する高橋・金子らと薩摩藩有志との間に井伊を排撃する斬奸義挙(ざんかんぎきょ)の計画が進み盟約が成立した。その間にも幕府の反対派追求は厳しく,関鉄之助を総指揮者とする水戸脱藩者稲田重蔵・鯉淵要人・蓮田市五郎ら17名と薩摩藩の有村次左右衛門は,雪の桜田門外に,井伊の行列を襲った。
蓮田の組は斎藤監物を頭とし,井伊の駕籠を襲った。自らも傷を負いながら老中脇坂侯の邸に赴き,趣意書を提出した。その後,細川越中之守邸他に移され,文久元年7月26日に処刑された。細川邸に預けられていたとき,家臣に求められ,桜田門乱闘の有様を詳細に画いた。
「桜田門外之変」図(部分)
「桜田門外之変」井伊大老の駕籠(拡大版)
≫ 徳川斉昭和歌扇面
徳川斉昭 寛政12年(1800)~万延元年(1860)→ 扇面をデジタルライブラリーで見る
字・子山,号・景山,潜竜閣,諡名・烈公。水戸藩9代藩主。江戸藩邸で生まれる。
文政12年(1829)藩主となる。藩内の改革推進派に擁立された形で,民政の安定と文武奨励をはかるが,保守門閥派と対立した。藩校「弘道館」をつくり,学問を奨励し,西洋の医学・兵術なども積極的に導入した。 幕政にも深く関わり,海防の強化や,尊皇攘夷を唱え,老中井伊直弼と対立した。徳川幕府15代将軍慶喜は,斉昭の七男である。この写真の扇に書かれている歌は,「人ならぬ木々の上にも時しあれはあかき心の色はみえけり」
斉昭の和歌を集めた「景山詠草」にも収められており,詞書に「おもふ事有ける頃もみちを見て」とある。
徳川斉昭和歌扇面

≫ 日本輿地路程全図(長久保赤水作)
日本輿地路程全図 → デジタルライブラリーで見る
水戸藩士で地理学者であり農政学者であった長久保赤水(享保2年(1717)~享和元年(1801))の,日本初の緯線記入の日本地図。安永9年(1780)に大阪で出版された。伊能図が秘蔵されたのに対し,改正版・模倣版が出され,民間にも利用された。
日本輿地路程全図 〔安永4年(1775)年〕
≫ 山村暮鳥関係資料(寄託資料)
山村暮鳥 明治17年(1884)~大正13年(1924)
明治17年1月,群馬県に生まれる。
本名は,土田八九十(旧姓志村のちに木暮)。
父・木暮久七,母・志村シャウ。
明治32年,地元の小学校の代用教員となり,後に,教会の英語夜学校に通い,キリスト教に入信する。伝道師として各地を赴任しながら,布教活動を続ける。
明治43年,自由詩社に参加し,山村暮鳥というペンネームで詩を「自然と印象」,「創作」,「早稲田文学」などの雑誌に発表。
大正2年,第一詩集『三人の処女』を自費出版する。同年,土田牧師の長女冨士と結婚,土田家の養嗣子となった。翌々年,第二詩集『聖三稜玻璃』を刊行。
大正7年,水戸ステパノ教会に転任。柳橋好雄,大関五郎らと知り合い,黎明会を結成,機関誌「苦悩者」を創刊する。翌年,結核のため伝道師を休職。
大正9年,安住の地を求めて大洗に転住。以後,窮乏生活を続けながら,詩集『梢の巣にて』,童話『鉄の靴』などを刊行。
大正13年,詩集『雲』の発刊準備が進む中,病状が悪化し,12月永眠した。
行年40歳。数日後,水戸の光林寺に埋葬された。
<参考資料> 『山村暮鳥全集』
山村暮鳥著 童話『鉄の靴』
詩集『雲』の生原稿と暮鳥の遺品
郷土資料(地域資料)の書誌データ公開
茨城県立図書館が所蔵する郷土資料の書誌データ(書名、著者、出版社、URLなど)のうち,自館作成分をオープンデータとして公開しています(リンク先は茨城県のホームページ)。